我が家のルーツの話

今日、日本女子大成瀬記念館の研究員の方が浦河の実家を訪ねてこられました。
創始者成瀬仁蔵氏の妻マスエが、私の曽祖父直一の妹に当るのです。
研究員さんは北海道に兄直一が移住しているのは知っていましたが、
子孫が現存していることは知らずに、去年調査のために浦河にいらして、博物館を訪ねられ、
私達につながったというご縁でした。

うちの曽祖父 直一は同志社新島襄と友達だったようだ。
その弟他之助はオダギリジョーの後にいる学生の一人だったようだ。
妹マスエは後に日本女子大創始者成瀬さんの幼な妻で、早世したらしい。
私ら全然知らんかったのでした。

以下、今日聞いたお話を忘れないうちに書いておきます。




ちょっと長いので、3つに分けます。
まずは直一から。
詳しい年号は資料が手元にないので、そこは省きますが、
明治元年から20年前後のことと思ってください。

直一は福井藩の出身で、父弥太郎は福井藩士(中級武士)で殿様の剣術指南などをしていたようです。
福井藩は、幕末頃にお抱え外国人技師が英語を藩士子弟に教えていたので、
明治になって直一が大阪に出た時には英語を話せたようです。

大阪の難波教会を初めに、京都神戸とキリスト教のつてを辿り、勉強をして、
その時に同志社の創立者となる新島襄らと親交がありました。
直一は同志社の出身ではありませんが、のちに弟他之助がアメリカ留学の後に
明治10年に同志社に入学しています。

直一は、キリスト教結社赤心社 
http://www.town.urakawa.hokkaido.jp/sports-culture/museum/sekishin/sekisin-rekisi.html 
の第1回移民とともに明治14年に浦河西舎に入植、そこが後に農林省の種馬牧場に
召し上げられたので、堺町に代替地をもらって、現在私達が住んでいる実家に至ります。

直一は、開拓で農業をする傍ら、聖書を販売する仕事を持っていました。
当時、まだキリスト教に対する反感や迫害も強かった時代ですので、
それはなかなか大変だったと思います。

聖書の販売に関しては、新島襄の尽力もあったらしいし、同志社が北海道に学校を新設する
計画(後に頓挫)があった時には、直一が道内の名士から寄付金を集める活動をしていたようです。

後の、日本女子大創始者 成瀬仁蔵氏は、山口県の出身で直一とは大阪浪花教会で
知り合ったようです。成瀬氏は大阪の梅花女学校の教師となり、在学中だった直一の妹
マスエを嫁にしました。
研究員の方がおっしゃるには、たぶん、同じ教会の若い男女の出会い、ということだったのではないか、
とのこと。

では、マスエ編につづきます。



ルーツ話 前回のあらすじ。大阪浪花教会で出会った兄の友人 成瀬は、梅花女学校の教師でもあった。
女学生マスエは、その出会いに大きな運命を感じたのであった。

か、どうかはわかりませんが、次はマスエ編です。
マスエも兄直一と一緒に福井を出て、大阪の浪花教会を頼っての関西進出となりました。
彼女は福井時代から英語が堪能で、神戸の教会で外国人宣教師との会話も自由自在だったそうです。
梅花女学校に入学してから、成瀬氏と結婚しました。卒業名簿に名前がないとの
研究員さんの調査があります。
退学してしまったのかも知れません。
これが大変もったいない事に。

ちなみに、成瀬さんはこんな方。
http://www.jwu.ac.jp/grp/about/naruse.html

明治23年に成瀬氏がアメリカに留学した際、相当借金を重ねての渡米で、しかもアメリカ人に
資金援助もしてもらえるのに「外国人に資金をもらうのは自分の目的と違う」として、
資金援助を受けなかったので、かなり困窮したようです。
マスエは日本に残ったのですが、体の具合が悪く、しかも縁者である兄直一はすでに北海道へ移住、
弟他之助はアメリカへ留学中。親戚を頼りながらの苦しい生活だったそうです。
成瀬夫妻に子どもはありませんでした。

そんなマサエの元に届く成瀬氏の手紙は「マスエが子どもを抱いている夢を見た」だの
「女性として自立しろ」だの「君との結婚は間違いだったかも知れない」だの、
夢を追って突っ走る男の勝手なロマン満載の手紙だったそうですよ。
日本女子大に残っているらしい...

マスエは手芸など、手先のことが得意で、成瀬氏からも「アメリカ人の教会関係者に
プレゼントする小物を何か作って送ってほしい」と頼まれて、
懐中時計につける組みひも(今だとストラップみたいなもんか)を作って送り、
大変喜ばれたようです。

卵巣の病気があって、病弱だったマスエは貧困のせいもあって、肺結核を患いました。
便宜上の離婚をして、旧姓に戻ったマスエは、留学から戻り同志社を卒業して
学習院初等科の教師になった弟他之助を頼って、そこで亡くなったのでした。
明治36年くらいのことです。うろおぼえ。

成瀬氏はマスエが亡くなってからも再婚はされませんでした。日本女子大の学生さん達は、
成瀬氏を神格化した傾向があったので、マスエの存在をなかった事にするような雰囲気も
なきにしもあらずだったそうです。

そして、私達子孫もマスエさんの存在はまったく知りませんでした。

曽祖父の直一は、弟他之助との2人兄弟だとばかり思っていたのでした。
去年、日本女子大成瀬記念館の研究員さんが浦河を訪ねてこられるまで、
マスエさんと言う人がいたことすら知らなかったのです。

マスエは、東京で亡くなったのですが、浦河の、直一から入っているお墓にその名はありません。

成瀬記念館の研究員さんが、その後を調査してくれています。

まだまだ謎は深まるばかり。





ルーツ話、前回のあらすじ。兄直一は北海道へ。姉マサエは成瀬氏と結婚し新潟、東京へ。
そして末っ子他之助はアメリカ留学へと旅立つのであった。

というわけで、他之助についても語っておきます、忘れないうちに。

兄直一と姉マスエは先に関西に進出していたのですが、福井で母セン子が亡くなって一時帰郷。
再度、関西に出た時に他之助も一緒に福井を出たようです。

京都に出てから、他之助は新島襄の出たアメリカの神学校に留学することになりました。
牧師になる学校だそうです。
帰国して、明治10年に同志社に入学。ちなみに、新島襄と八重の結婚は明治9年。
かぶってます、かぶってます。
兄直一も新島襄とは懇意だったようなので、留学はその縁であったかと。

他之助は、同志社を出てから梅花女学校の教師となり、そこは成瀬氏との縁ですね。
その後、学習院初等科の教師となりました。教え子に、日本民藝館で有名な柳宗悦がいます。
私は、「昭和天皇の先生だった」と昔、祖母に聞いたことがあります。
植物学を教えたようです。
更に、日本女子大の教授となりました。

北海道に渡った長兄 直一は、娘たちを東京の他之助宅に預けて、いろいろと学ばせたようです。
直一の娘2名は聖路加国際病院の看護士(婦長)となりました。びっくり。
この人達は結婚せずに後に浦河に戻って亡くなっています。

さて。

長い話となりました。
北海道に渡った直一は、1男6女をもうけまして、その長男である重雄が私の祖父です。
重雄には実子がおりませんで、妹サクの4男 直志を養子にもらいました。
それが私の父となります。

この直志はもう亡くなったのですが、以上の話を全然私らに伝えませんで!
私達はまったく知らなかったです!
父 直志もあまり知らなかったのかも知れません。

今回、日本女子大成瀬記念館の研究員さんが、成瀬氏の妻マスエの研究をされ、
かなり詳しく調査をしてくれて、私達の一族の系図まで作ってくれました。
偶然とはいえ、本当に有難いです。
まだまだ新事実が出てくるかも、とこれからがまた楽しみ。

終わりです。

【2015年3月19日追記】

先日、この件を調査して下さってる日本女子大 成瀬記念館の
研究員の方から、ご連絡がありました。

曽祖父 直一の弟 服部他之助について
新たな事実が判明しました、とのこと。

服部他之助の子孫の方がもういらっしゃらないと
私たちは思っていたのですが、ブログをきっかけに
子孫の方が研究員さんに連絡を取って下さって、
今までわからなかった服部他之助と妹マスエの
お墓がわかりました。
子孫の方がお墓を守って下さっていたそうです。

ありがとうございます。

研究員さんからは、服部他之助の詳しい履歴を
教えていただきました。

1882年(明治15年)同志社卒業後、
1886年(明治19年)から1891年(明治24年)まで
アメリカに留学。
1902年(明治35年)から1923年(大正12年)まで
学習院・学習院女子の教授を務める。
博物学や英文学などを専門とする。
1906年(明治41年)から1931年(昭和10年)まで
日本女子大教授を務める。
(戦前は非常勤の先生も含めて教授と表現されていました)

以前の記事にて、
服部他之助氏の子孫の方々には
配慮のない表現をいたしました事を
お詫びします。

また、日本女子大成瀬記念館研究員の方には
いつも詳しいご報告とご尽力を感謝しています。
ありがとうございます。


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by eniwasorati | 2013-09-16 23:32 | ねこや食堂の歴史 | Comments(6)
Commented by bgdogdog at 2013-09-17 00:33
大学の時の専攻が明治初期の女性史が専門だったのでとっても興味深い話しです。

まだまだ続きが聞きたいです(^◇^)
Commented by のび太@千葉 at 2013-09-17 08:31 x
私にもつながってる話だし、今「八重の桜」にはまってるのでジョーと直接絡みがあるというのがとてもインパクトあります!直一氏自身は同志社で学んでいたわけじゃない、というのは新情報でした。
Commented by eniwasorati at 2013-09-17 21:17
もいろみさん、まさに明治初期の女性史そのままの
マサエの人生でございました。
士族の娘で、英語を学び、キリスト教に帰依し、
女性教育の理想に燃える伴侶を持ちながら、
病と貧しさに倒れました。

研究員の方は、今回の来浦でいろいろと収穫が
あったとおっしゃっていましたので、きっと
新しい発見もあるかと思います。
続報しますね。
Commented by eniwasorati at 2013-09-17 21:20
のび太@千葉さん、そうだよね。
今回、いろんなことを教えてもらいました。
マサエ本人の小さなエピソードは、もう私達には知るすべもない
事だったのですが、研究員さんが成瀬氏が残した手紙などから
拾ってくれました。
直一は、同志社がはっきりと設立されるまえに北海道に
来てるか、その準備で神戸にいたかなので、
同志社を出た、とはいえないのでした。
しかし新島襄とは友達なので、それはそれでまた濃いよね。
Commented by のび太@千葉 at 2016-01-31 15:01 x
土曜日の「あさが来た」にいよいよマスエさんご本人登場だったね!古いブログに書き込みしてごめん。
Commented by eniwasorati at 2016-02-01 08:23
のび太さん、成瀬さんが出るというのは知ってたけど、マスエさんも登場とは!
公式にはマスエというカタカナ表記なんだけど、記事では漢字になってましたね。
どこかにそういう記載もあったんでしょうね。


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